2018年1月23日火曜日

【学問のミカタ】科学における理論・モデル・エビデンス-経済学の「エビデンス」とは

全学部コラボ企画、「学問のミカタ」、2017年度1月担当となりました黒田です。理論編・モデル編からかなり間が開いてしまいましたが、皆さん覚えておられますでしょうか。
全学部コラボ企画「学問のミカタ」ではそれぞれの執筆者が自分の専門テーマなどをわかりやすく解説していきます。このブログの記事を通じて、皆さんが経済学は面白い学問だ、と思って頂ければ幸いです。私が前回担当をしたときには、経済学の研究が行われる「理論」「モデル」「エビデンス」という3つの段階のうち、「理論」と「モデル」について記しました。今回は最後の「エビデンス」について、僕が行っている研究、特にNHKと共同研究を行った「メディアと政治」についての研究で得られた「エビデンス」を紹介します。

先ずは前回までのおさらいを兼ねて、経済学を含む科学研究の「理論」・「モデル」・「エビデンス」の流れを紹介します。「理論編」では、学問分野を特徴付ける要素には「理論」と「対象」の2つが有り、経済学は様々な経済行動やその他の人間行動を、人間の「合理的選択」という理論から特徴付けてゆく学問である事を紹介しました。この「合理的選択」という理論から導き出される具体的な行動を数式に寄って記述したものが経済学の「モデル」となります。例えば、「ある財の価格が下がれば、人はその財をより多く消費するだろう」という消費についての理論があるとします。その理論を数式を用いた「モデル」として表現するため、まず価格をpという変数として記す事とします。また、人々が消費する量をqという変数として記す事にします。仮に価格と消費量の関係が直線で表されるとすれば、この消費についてのモデルは直線の切片と傾きをそれぞれaとbとすると”q = a+bp”として記す事ができます。これが価格と消費量についての人間行動を表す最も単純なモデルとなります。

人々の行動を「モデル」として記述した後に来るのがエビデンスです。ある財の価格が下がったとき、人々は本当にその財の消費量を増やすのでしょうか。それを明らかにするのが「エビデンス」の役割です。先ほどの価格と消費量の関係を表すモデル”q = a+bp”では、切片と傾きをそれぞれabというパラメータとして記しています。しかし、このabの具体的な値についてはまだわかっていません。また、時計や宝石などの装飾品では、多くの人が欲しいと思うような素敵なものの値段はとても高い事があります。ひょっとすると、人によっては値段が高くなれば高くなるだけそれを欲しくなる人がいるかもしれません。また、売り手は多くの人がそれを欲しいと思うとき、売る価格を高く付けるかもしれません。即ち、価格が人々の消費量を決めるのではなく、消費量が価格を決めているのかもしれないのです。価格が変わったときに購入量が増えるのか、それとも減るのかは、先ほどのモデルの傾き”b”の値を明らかにすれば確かめることができます。この”b”の値を知る事こそが、「ある財の価格が下がれば、人はその財をより多く消費するだろう」という「理論」を利用するために求められる「エビデンス」なのです。

価格についてのエビデンスを示した研究を1つ紹介しましょう。2011年の東日本大震災以降のしばらくの間、被災地域では多くの発電所が稼働を停止し、人々が利用したい量の電力を発電することができなかったため、計画停電を実施しました。この時、「電力価格を上げれば需要は減るのだから、発電可能な量に電力需要が減るまで価格を上げれば良い」との主張を唱える人もいました。確かに、その人が電力をどれだけ使いたいかという事を全く無視して、地域毎に停電とするよりは、価格を引き上げて需要を減らすことで、より多くのお金を電力に対して支払っても良い人に電気を使って貰った方がより必要性の高い人が電力を利用できるようになるかもしれません。しかし、2011年の3月には、冬の寒い季節に価格を上げたとき、どれだけ人が電力の利用量を減らすのかについての「エビデンス」、即ち先のモデルの”b”の値について確かな数値を知っている人はいませんでした。「価格を上げれば計画停電をしなくても良い」という理論とモデルがあったとしても、具体的な数値がわからなければ、即ち「エビデンス」が無ければ経済学を用いて社会を動かすことはできないのです。

電力が不足しそうな時、電力価格を引き上げることでどれだけ需要量を減らす事ができるのかを明らかにした研究が伊藤(2017)に紹介されています。シカゴ大学の伊藤公一郎さんらの学者・企業・政府からなる研究チーム[1]2012年の北九州市にて、電力が不足しそうになる事が予想される日に一部の世帯に「今日の13時から17時までの電力価格は50円に上昇します」とのメッセージを送り、実際にその料金を適応する実験を行いました。通常の電力価格は23円ですが、実験では50円、100円、150円のいずれかの価格を無作為に割り当てる事で、電力価格だけが様々に変わった時の人々の電力利用量を観察したのです。その結果、電力価格が23円から50円に上昇した場合、人々は電力利用量を9%削減する事がわかりました。また、電力価格が23円から150円に上昇した場合は約15%削減する事がわかりました。電力不足を価格でコントロールするためにはかなりの価格引き上げが必要で、家計の電気料金支出はかなり大きくなるようです。

電力価格の例からわかるとおり、科学によって得られた知見を利用するためには、「理論」を「モデル」として記述し、「エビデンス」によって具体的な数量を把握しなければなりません。これを政府の政策の中に明示したのが、米国前大統領のオバマ大統領でした[2]。また、ネット通販大手のAmazon.comは毎年多くの経済学博士号取得者を雇って様々な取り組みについてのエビデンスを得て、日々事業を改善しているそうです。日本でも内閣府や経済産業省などがEBPMEvidence-Based Policy Making)として、エビデンスに基づく政策立案を推進すべく、様々な検討を行っています。

科学を社会で活用するための「エビデンス」を作る方法として、最もよく用いられる方法は実験です。例えば物理学では実験装置を構築し、世界のあり方についての理論から予測される様々な世界を構成する要素の存在を明らかにします。医学でも、ある治療法が有益なのかどうかを確かめる実験を動物や実際の患者を対象にして行い、その有益さが認められて初めて一般に利用されるようになります。また、「エビデンス」を得るために政府による巨額の予算が与えられています。例えば2015年にノーベル物理学賞を受賞した梶田氏の研究に関連するスーパーカミオカンデは約100億円をかけて建築され、ニュートリノの観察を継続的に行っています。また、2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞した山中氏の所属する京都大学iPS細胞研究所は300人が毎年80億円程度の予算でiPS細胞の実用化に向けた様々な実験を行っています。

一方、経済学では「エビデンス」の無い「理論」や「モデル」のみで政策を論じてきた歴史が長く、経済学者が政策において「エビデンス」を用いて議論をするようになったのは比較的最近の話です。理由の1つとして、経済学には実験を行うための予算が与えられておらず、実験を用いた研究を行う機会が限られていることが挙げられます。日本の公的研究資金の代表である日本学術振興会の科学研究費でみると、2017年の経済学の配分額は13億円で、同年の物理学74億円、生物学38億円、医歯薬学145億円と比べてごく僅かな予算です。経済学に大きな予算をかけて多くの人を雇い、様々な実験を行えば、経済政策に有益なエビデンスを多く得る事ができるでしょう。実際に、賃金の低い低所得国では、貧困対策に関する様々な実験が行われ、多くの「エビデンス」が得られています。しかし、高所得国では賃金が高いため、大規模な実験を用いた経済学研究が行われた事例はまだ僅かです。

その代わりとして、経済学者は「統計学」や「ゲーム理論」の知見を活用して、大規模な実験を行わなくても社会を動かすために信頼出来る「エビデンス」を得る手法を開発してきました。それこそが私の主な研究領域であり、経済学ならではの魅力だと思うのですが、それについてはまた別の機会に、できれば私の授業で学んで頂ければと思います。

それでは最後に、私がNHKと共同で実施した実験による「エビデンス」を紹介しましょう。私がNHKと共同で実験したのは、NHKの番組がインターネットの動画配信サービスとして利用できるようになった時、人々はどのくらいそれを利用し、その代わり他のサービスをどのくらい利用しなくなるのかを6,000人の参加者を用いた実験によって検証しました。実験の期間は20161128日から1218日までの3週間で、その期間の朝7:00-23:00の間に放送されたNHKの総合チャネルと教育チャネルの番組を、実験参加者のうち5,000人は放送と同じタイミング、もしくは後から好きなときにパソコンのWebブラウザ、もしくはスマートフォンアプリを通じて見られるようにしました。また、残りの1,000名は通常通りの利用環境としたため、この1,000名と先の5,000名の行動の違いはインターネット配信の影響と考える事ができます。まず、インターネット配信がある事で、通常のテレビによる番組視聴時間を比べたのが、以下の図1となります。
横に並んだ2本の棒グラフはそれぞれのチャンネルの視聴分数を表し、緑が一般の環境、赤がNHKのインターネット配信が利用できる人の視聴分数です。また、それぞれの棒についている足つきの線は、観察が限られた人数である事から生じる誤差を考慮したとき、真の視聴分数が95%で存在する範囲を示しています。棒の長さだけをみるとインターネット配信で視聴分数が短くなったり、長くなったりするかもしれないように見えますが、赤と緑の2本の差は誤差の範囲である事がわかります。その他、番組ジャンル別・年齢別の視聴分数の違い等も検証しましたが、いずれもインターネット配信によって変化することはなさそうでした。一方、様々なインターネットサービスの利用への影響を見たところ、NHKや民放のWebサイト、もしくはアプリの利用、Facebookの利用が上昇する事がわかりました。恐らくこれはテレビを見ていた人がパソコンやスマートフォンの画面を見るようになった事で、普段から使っているアプリを利用する機会が増えたのではないかと考えられます。

この実験結果から、NHKのインターネット配信には民放が懸念する経営への影響や米国や欧州で観察されてきたニュースから娯楽への視聴のシフトが生じる事は無さそうだという「エビデンス」が得られました。日本民間放送連盟会長はNHKのインターネット配信に対して「民放などに影響が出る」とたびたび主張していますが、それがいったいどのような「エビデンス」によるものなのか、是非提示して頂きたいところです。一方、NHK番組のインターネット配信は多くの人が他のサービスの利用をやめて張り付くような魅力には至らないサービスという事でもあります。このようなサービスになぜNHKや民放、そして政治家が注目するのか不思議な気もします。

エビデンスに基づく政策立案の利点の1つに、「エビデンス」によらない空虚な言い合いによって互いに足を引っ張り合う事を避けられる、という事が知られています。エビデンスに基づく政策立案を導入し、科学的な知見に基づく政策を行う事でより良い社会を実現することができるでしょう。そして、経済学者はそうした「エビデンス」の構築に向けて日々研究を進めているのです。

参考文献
伊藤公一郎(2017)『データ分析の力』光文社新書
依田・田中・伊藤(2017)『スマートグリッド・エコノミクス』有斐閣


[1] 伊藤公一朗さんの研究チームは、依田高典京都大学経済学研究科教授、田中誠政策研究大学院大学教授、経済産業省・北九州市・新日本住金等様々な機関が参加しました。この実験の詳細は依田・田中・伊藤(2017)に記されています。余談ですが、依田先生は私の大学院の指導教員で今も共同研究をしている相手です。また、伊藤さんは1学年下の後輩で、学部時代に一緒に勉強会したときにその聡明さに驚いた事があります。
[2] 後任のトランプ大統領は2017年末に米疾病対策センターに対して”Evidence-based”という語句を用いないように指示したそうですが。