全学部コラボ企画、「学問のミカタ」、2017年度7月担当となりました黒田です。
先週土曜日に東京ビッグサイトで開催された「夢ナビライブ」という高校生向けのイベントで、「経済学」について紹介してきました。そちらでもこのブログ同様に、経済学とは「理論」「モデル」「エビデンス」という3つの段階を通じて世の中の仕組みを理解してゆくものだと説明したところ、「経済学にはミクロ経済学・マクロ経済学というものがあるのでは」との質問を受けました。確かに多くの大学には「ミクロ経済学」と「マクロ経済学」という科目が開講されています。経済学を理論・モデル・エビデンスという視点で説明するときの「ミクロ経済学」と「マクロ経済学」の違いは、理論を説明するモデルの違いになります。
経済学のモデルにはミクロ経済学と呼ばれる一連のモデル群と、マクロ経済学と呼ばれる一連のモデル群があります。マクロ経済学が登場した20世紀初頭にはイギリスのケインズという学者が経済学の理論を特徴付ける合理的な人間行動とは異なる理論体系を『雇用・利子および貨幣の一般理論』という著書で提案しました。しかし、ケインズの理論は1960年代ごろには合理的な人間行動による長期の現象を説明するものと解釈され、合理的な行動によって特徴付けられる経済学のモデルの一つに吸収されました。また、1980年代にはマクロ経済学のモデルはミクロ経済学のモデルに統合されたため、現代の経済学にマクロ経済学固有の理論やモデルというものは存在しなくなっています。
しかし、研究の先端が学者の間で広く浸透するのに5~10年、大学の教科書に載るようになるまでには10~20年かかります。今でも公務員試験などではマクロ経済学の固有のモデルが出題されますし、高齢の経済学者では未だにマクロ経済学固有の理論を利用して経済を説明しようとする方もいるようです。同じ「夢ナビライブ」に参加していた「マクロ経済学」を教えている方に尋ねたところ、現在はマクロ経済学固有のモデルが失われていく過渡期にあるのだろうとの事でした。また、私の理解するところでは多くの大学における経済学教育は「理論」「モデル」に偏重しており、「エビデンス」についての教育は手薄の大学が多いようです。これは、経済学でも生物学や物理学と並列に語る事のできるような強い「エビデンス」が出せるようになったのが1980年代後半の事だからで、研究の動向が大学の教育プログラムに組み込まれて行くには時間がかかるためです。今後はマクロ経済学やその他重要度の低くなった分野の理論・モデルに割かれる時間が減る代わりに、今後は「エビデンス」に割かれる時間が増えてゆく事でしょう。
さて、前回に引き続き、今回は経済学の研究が行われる「理論」「モデル」「エビデンス」という3つの段階のうちの、「モデル」について記そうと思います。そして、僕が行っている研究、特にNHKと共同研究を行った「メディアと政治」についての研究を例として、僕がそれぞれの段階でどのように考えているのかを紹介していきたいと思います。
経済学の理論を使って分析を進めて行くためには、選択に影響を及ぼすさまざまな条件が変わったとき、人々がどのように選択を変えるだろうか、を予測するための「モデル」が必要となります。経済学の「モデル」とは、複雑な人間行動や社会的関係から、特に重要と考えられる特徴を選び、その特徴を数学の言語を用いて記述したものです。典型的な経済学の職業選択モデルでは、人々が職業選択を行うときに考慮するのは「賃金」を好ましいものとし、「労働の不快さ」を好ましくないものとして、その二つの差の帰結として好ましさが最大になる職業を選択するだろう、というものです。実際に僕は経済学者が他の職業に比べて「賃金」と「労働の不快さ」のいずれからも好ましいと考えています。一方、「社会的影響力」や「やりがい」なども僕の職業選択に影響しています。僕は恐らく給料が半減したときには例え「社会的影響力」や「やりがい」が変わらなかったとしても、他の職業に転職するのではないかと思います。
僕のことは僕がよく知っているので、「社会的影響力」や「やりがい」は給料の半分位が失われるのなら断念しても良い程度の「好ましさ」として僕の職業選択モデルに組み込むことができます。しかし、他の人が「やりがい」や「社会的影響力」をどのくらいの価値と考えているかを観察するのは容易ではありません。そのため、経済学者の構築する職業選択モデルは比較的容易に観察できる「賃金」や「労働の不快さ」などの要因のみによって構築される事が多いです。
心理学や社会学もそれぞれの理論からの予測を導くための「モデル」を構築します。経済学はガリレオの科学革命以降の科学の作法に従い、数式を用いてモデルを記述してきました。しかし、他の学問分野では数式で表現できない理論も多く用いられてきたようです。現代の心理学は数式を用いてモデルを記述できる理論が中心となっていますが、20世紀中頃までの心理学者には数式で記述できない理論を用いて議論を展開する心理学者も居たようです。社会学者には現代でも数式で記述できない理論を用いるものも多いようです。人間の考える概念や構築する構造物は必ずしも簡単な数式で表現できるとは限らない事は、電気回路の特徴が連立方程式だけでは記述しきれないことからも科学者の間で良く理解されています。しかし、数学で記述できる理論は矛盾を発見したり、理論から導かれる予測を特徴付けることが容易なので、現代の科学では数学の言語を用いて記述されてきた理論中心として研究が行われています。また、数学者は数学の言語を用いて記述できる領域を拡大し続けているので、数学の言語を用いて記述できる理論の範囲も拡大しています。
それでは、先の「メディアと政治」における僕の関心事は、どのようなモデルとして描く事ができるでしょうか。メディアの経営者やジャーナリストがどのニュースを報道するかを決める上で、経済学者が注目しているのは、「どのニュースを報道するとより利益が得られるか」という金銭的な動機と、「メディアの経営者やジャーナリストにとって、金銭を度外視してでも支持する事が好ましいと考えている政治家はいるか」という非金銭的な動機です。多くのメディアは株式会社として運営されており、従業員に支払う賃金や、株主に支払う配当に宛てる収入を得る事ができなければ企業を存続させることができません。また、ジャーナリストも一切の収入を得る事ができなければ、ジャーナリストとして生きてゆく事は困難でしょう。一方で、メディアやジャーナリストは金銭を度外視してでも人々が知るべきと考えるニュースをようとする動機も持っている事でしょう。従って、メディアの報道内容を予測するためには、このモデルに含まれている金銭的な動機と、非金銭的動機のどちらがどのくらい重要なのかを確かめることで、メディアの行動原理を記述することができるようになります。同様に、ニュースを見るときに、「新聞」を用いるか、それとも「インターネット」を使うかのモデルには、「月額料金」や「記事の質」がメディアの「好ましさ」を決めるとするモデルを構築します。そして、無料のインターネットのニュースサイトと、有料の新聞や新聞社のニュースサイトを利用する人は、それぞれが「月額料金」を支払う事の不快さと、「記事の質」に対して感じる「好ましさ」がどの程度なのかを確かめることで、人間行動を予測してゆきます。
「モデル」におけるさまざまな要因がどの程度の強さで影響するのかを明らかにするのが「エビデンス」です。エビデンスは、現実に生じたさまざまな現象を数値化したデータを用い、モデルに組み込まれた要因の影響の大きさを特定します。先の関心事である「メディアの経営者やジャーナリストは、報道する内容をどのように選択しているだろうか」という問題では、金銭的な動機と、非金銭的動機という2つの動機を比較するモデルを用いてメディアの行動原理を記述しました。このモデルは数式によって記述することができるため、実際にメディアが報道した内容と、メディアの売上のデータを用いて、それぞれの影響力の強さを明らかにする事ができます。2000年代に入ると、第1回で紹介したStanford UniversityのGentzkow教授というスーパースターに牽引される形でメディアの行動原理を特定するエビデンスが多数作られるようになってきました。次回はメディアがどのように報道内容を決めているのか、そしてそれは我々にどのように影響を与えているのかについての「エビデンス」について紹介をしたいと思います。
2017年7月31日月曜日
2017年7月23日日曜日
【学問のミカタ】科学における理論・モデル・エビデンス-経済学の「理論」とは
全学部コラボ企画、「学問のミカタ」、2017年度7月担当となりました黒田です。
全学部コラボ企画「学問のミカタ」ではそれぞれの執筆者が自分の専門テーマなどをわかりやすく解説していきます。このブログの記事を通じて、皆さんが経済学は面白い学問だと思って頂ければ幸いです。今回は、経済学の研究が行われる「理論」「モデル」「エビデンス」という3つの段階のうち、「理論」について記し、残りの「モデル」「エビデンス」についてはまた後日別記事としてUPしようと思います。また、「理論」「モデル」「エビデンス」と進められる経済学研究の例として、僕が行っている研究、特にNHKと共同研究を行った「メディアと政治」についての研究を中心に、それぞれの段階でどのように考えているのかを紹介していきたいと思います。
僕がいま研究しているテーマの一つに「メディアと政治」があります。「メディアと政治」というテーマが経済学の研究テーマになるのは意外だと思われた方もいるのではないでしょうか。しかし、「メディアと政治」は経済学者の間で強い注目を集めているテーマです。2014年「メディアと政治」に関する研究を行ってきたStanford UniversityのMatthew Gentzkow教授がジョン・ベイツ・クラーク賞を授賞しました。同賞はアメリカ経済学会がアメリカで働く40歳以下の経済学者のうち、経済学の考え方と知識に最も顕著な貢献をした1名を受賞者として選定する賞で、ノーベル経済学賞を含めた数ある経済学賞の中でも最も授賞が難しいとされています。Gentzkow氏が行った「メディアと政治」の研究は、経済学者が経済学をより良く理解するために最も貢献した研究のひとつであると評価されたのです。
「メディアと政治」について研究しているのは経済学者だけではありません。コミュニケーション学者、社会学者、心理学者、政治学者など、さまざまな分野の研究者が「メディアと政治」について研究をしています。経済学者による「メディアと政治」の研究は、別の分野の研究者の行う「メディアと政治」の研究とどのような関係にあるでしょうか。
学問分野を特徴付ける要素には、「理論」と「対象」があります。経済学、社会学、心理学は主に理論によって特徴付けられている学問だと考えられます。同じ「メディアと政治」というテーマを見るときに、経済学には経済学の理論を使って分析をしようとします。同様に、「メディアと政治」を見るときに、社会学者は社会学の理論を、心理学者は心理学の理論を用いて分析をしようとします。一方、政治学やコミュニケーション学は主に「対象」によって特徴付けられている学問です。政治学者は「政治」というテーマについて、経済学や心理学、社会学の理論を通じて分析します。コミュニケーション学は、コミュニケーションというテーマについて経済学や社会学や心理学の理論を通じて分析します。
「経済学」と「商学」「経営学」の違いも、「理論」による特徴付けと、「対象」による特徴付けから理解する事ができます。経済学は「理論」によって特徴付けられているのに対し、「商学」や「経営学」は分析対象によって特徴付けられています。「商学」や「経営学」は、経済学、社会学、心理学などの理論を用いて「商学」や「経営学」の分析対象を分析する学問です。逆に、経済という分析対象を社会学や心理学の理論を用いて研究している人が経済学者を名乗ったとき、経済学の理論を使って研究を行う事が経済学だと考えている経済学者からは「異端派経済学者」とみなされるでしょう。
経済学の「理論」を特徴付ける要素の一つは、「人は自らの置かれた環境で選択可能な選択肢の中から、もっとも好ましいと判断した選択肢を選ぶだろう」という理論です。人の選択がこのように行われている事を、経済学では「合理的選択」と呼びます。例えば、僕が理学部物理学科を中退して経済学部経済学科に入学し、物理学者ではなく経済学者になったのは、僕が経済学者として生きる道を物理学者として生きる道よりも「好んだ」ために、経済学者になる道を「選択した」とみなすということです。心理学者はなぜ私が物理学者になるよりも経済学者になったのかを、僕の内部にある生理的作用から探っていくための理論を持っています。また、社会学は僕が物理学者ではなく経済学者になるに至った社会的要因を探るための理論を持っています。しかし、経済学は人の中で起きていることや、社会という集合体がもつ影響力はいったん差し置いて、人間が「選択した」ものはきっとその人が選択できる選択肢のなかで「好んだ」ものだったのだろうと考えます。そのように想定する事で、経済学は人間行動を数学の言葉で記述された「モデル」によって表現する事ができるようになります。経済学の「合理的選択」とは、一般に連想される理性的な、けれども何処か冷たい感じのする選択を示すのではなく、経済学の「理論」と「モデル」の間の橋渡しをするために付けられた便宜上の名前に過ぎません。
この「合理的選択」の理論を使って僕は「メディアと政治」を研究しています。「メディアと政治」について、僕が関心を持っている人間の「選択」は、「メディアの経営者やジャーナリストは報道する内容をどのように選択しているだろうか?」という情報を送る側の選択と、「人々はどのように利用するメディアを選んでいるだろうか?」という情報を受け取る側の「選択」です。また、「メディアの報道の選択や人々の利用するメディアの選択の結果、世の中はどのように変化していくだろうか?」という事にも関心を持っています。しかし、人々の選択を組み合わせたとき、どのような社会的帰結が起きるかを説明するためには「ゲーム理論」という追加の理論が必要です。ただでさえ長い記事がますます長くなってしまうので、さしあたりこの連載では「合理的選択」の理論から説明できる送り手の選択と、受け手の選択を説明する理論のみについて説明していくこととします。
僕にとって物理学者よりも経済学者になることが好ましいから僕は経済学者を選んだのだろうと経済学の理論がみなすように、「メディアと政治」の経済学では、「メディアの経営者やジャーナリストがこのニュースを報道することを決めたのは、それが他のニュースを報道するよりも好ましいと考えたからだろう」であるとか、「人々がニュースを新聞ではなくインターネットを使って見ようとするのは、新聞よりもインターネットを使う方が好ましいからだろう」と考える事になります。それでは、メディアの送り手にとって、どんな記事が好ましいと判断されるでしょうか。また、受け手にとって、どんなメディアが好ましいと判断されるでしょうか。それを分析するためには、何が合理的選択で、何が合理的選択ではないかを特徴付けるための「モデル」が必要になります。モデルの作り方次第では、「合理的選択」は一般に連想されるような冷たい人間のみならず、他人を思いやる人間、熱意に溢れる正義の人、後先考えない愚か者にもなりえます。次回は、理論と現実の橋渡し役を行う「モデル」という概念について説明したいと思います。
投稿者:黒田敏史
全学部コラボ企画「学問のミカタ」ではそれぞれの執筆者が自分の専門テーマなどをわかりやすく解説していきます。このブログの記事を通じて、皆さんが経済学は面白い学問だと思って頂ければ幸いです。今回は、経済学の研究が行われる「理論」「モデル」「エビデンス」という3つの段階のうち、「理論」について記し、残りの「モデル」「エビデンス」についてはまた後日別記事としてUPしようと思います。また、「理論」「モデル」「エビデンス」と進められる経済学研究の例として、僕が行っている研究、特にNHKと共同研究を行った「メディアと政治」についての研究を中心に、それぞれの段階でどのように考えているのかを紹介していきたいと思います。
僕がいま研究しているテーマの一つに「メディアと政治」があります。「メディアと政治」というテーマが経済学の研究テーマになるのは意外だと思われた方もいるのではないでしょうか。しかし、「メディアと政治」は経済学者の間で強い注目を集めているテーマです。2014年「メディアと政治」に関する研究を行ってきたStanford UniversityのMatthew Gentzkow教授がジョン・ベイツ・クラーク賞を授賞しました。同賞はアメリカ経済学会がアメリカで働く40歳以下の経済学者のうち、経済学の考え方と知識に最も顕著な貢献をした1名を受賞者として選定する賞で、ノーベル経済学賞を含めた数ある経済学賞の中でも最も授賞が難しいとされています。Gentzkow氏が行った「メディアと政治」の研究は、経済学者が経済学をより良く理解するために最も貢献した研究のひとつであると評価されたのです。
「メディアと政治」について研究しているのは経済学者だけではありません。コミュニケーション学者、社会学者、心理学者、政治学者など、さまざまな分野の研究者が「メディアと政治」について研究をしています。経済学者による「メディアと政治」の研究は、別の分野の研究者の行う「メディアと政治」の研究とどのような関係にあるでしょうか。
学問分野を特徴付ける要素には、「理論」と「対象」があります。経済学、社会学、心理学は主に理論によって特徴付けられている学問だと考えられます。同じ「メディアと政治」というテーマを見るときに、経済学には経済学の理論を使って分析をしようとします。同様に、「メディアと政治」を見るときに、社会学者は社会学の理論を、心理学者は心理学の理論を用いて分析をしようとします。一方、政治学やコミュニケーション学は主に「対象」によって特徴付けられている学問です。政治学者は「政治」というテーマについて、経済学や心理学、社会学の理論を通じて分析します。コミュニケーション学は、コミュニケーションというテーマについて経済学や社会学や心理学の理論を通じて分析します。
「経済学」と「商学」「経営学」の違いも、「理論」による特徴付けと、「対象」による特徴付けから理解する事ができます。経済学は「理論」によって特徴付けられているのに対し、「商学」や「経営学」は分析対象によって特徴付けられています。「商学」や「経営学」は、経済学、社会学、心理学などの理論を用いて「商学」や「経営学」の分析対象を分析する学問です。逆に、経済という分析対象を社会学や心理学の理論を用いて研究している人が経済学者を名乗ったとき、経済学の理論を使って研究を行う事が経済学だと考えている経済学者からは「異端派経済学者」とみなされるでしょう。
経済学の「理論」を特徴付ける要素の一つは、「人は自らの置かれた環境で選択可能な選択肢の中から、もっとも好ましいと判断した選択肢を選ぶだろう」という理論です。人の選択がこのように行われている事を、経済学では「合理的選択」と呼びます。例えば、僕が理学部物理学科を中退して経済学部経済学科に入学し、物理学者ではなく経済学者になったのは、僕が経済学者として生きる道を物理学者として生きる道よりも「好んだ」ために、経済学者になる道を「選択した」とみなすということです。心理学者はなぜ私が物理学者になるよりも経済学者になったのかを、僕の内部にある生理的作用から探っていくための理論を持っています。また、社会学は僕が物理学者ではなく経済学者になるに至った社会的要因を探るための理論を持っています。しかし、経済学は人の中で起きていることや、社会という集合体がもつ影響力はいったん差し置いて、人間が「選択した」ものはきっとその人が選択できる選択肢のなかで「好んだ」ものだったのだろうと考えます。そのように想定する事で、経済学は人間行動を数学の言葉で記述された「モデル」によって表現する事ができるようになります。経済学の「合理的選択」とは、一般に連想される理性的な、けれども何処か冷たい感じのする選択を示すのではなく、経済学の「理論」と「モデル」の間の橋渡しをするために付けられた便宜上の名前に過ぎません。
この「合理的選択」の理論を使って僕は「メディアと政治」を研究しています。「メディアと政治」について、僕が関心を持っている人間の「選択」は、「メディアの経営者やジャーナリストは報道する内容をどのように選択しているだろうか?」という情報を送る側の選択と、「人々はどのように利用するメディアを選んでいるだろうか?」という情報を受け取る側の「選択」です。また、「メディアの報道の選択や人々の利用するメディアの選択の結果、世の中はどのように変化していくだろうか?」という事にも関心を持っています。しかし、人々の選択を組み合わせたとき、どのような社会的帰結が起きるかを説明するためには「ゲーム理論」という追加の理論が必要です。ただでさえ長い記事がますます長くなってしまうので、さしあたりこの連載では「合理的選択」の理論から説明できる送り手の選択と、受け手の選択を説明する理論のみについて説明していくこととします。
僕にとって物理学者よりも経済学者になることが好ましいから僕は経済学者を選んだのだろうと経済学の理論がみなすように、「メディアと政治」の経済学では、「メディアの経営者やジャーナリストがこのニュースを報道することを決めたのは、それが他のニュースを報道するよりも好ましいと考えたからだろう」であるとか、「人々がニュースを新聞ではなくインターネットを使って見ようとするのは、新聞よりもインターネットを使う方が好ましいからだろう」と考える事になります。それでは、メディアの送り手にとって、どんな記事が好ましいと判断されるでしょうか。また、受け手にとって、どんなメディアが好ましいと判断されるでしょうか。それを分析するためには、何が合理的選択で、何が合理的選択ではないかを特徴付けるための「モデル」が必要になります。モデルの作り方次第では、「合理的選択」は一般に連想されるような冷たい人間のみならず、他人を思いやる人間、熱意に溢れる正義の人、後先考えない愚か者にもなりえます。次回は、理論と現実の橋渡し役を行う「モデル」という概念について説明したいと思います。
投稿者:黒田敏史
2017年7月10日月曜日
【授業紹介:職業選択とキャリア形成1】
経済学部の南原です。
前期のキャリア科目の「職業選択とキャリア形成1」を担当しています。この授業では本学の20歳代から30歳代の若手・中堅の卒業生を多くゲスト講師としてお招きしています。今年は、建設、公務員、外資系企業、流通、IT、写真家などに実際の仕事の内容を講演していただいています。
6月下旬には大手お菓子メーカーの30歳代の気鋭の卒業生が講師として登場しました。講師は自己の豊富な営業体験をパワーポイントで説明し、学生と相互方向の意見交換も行われました。
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