2018年9月17日月曜日

【学問のミカタ】η > δ:習慣は目先にまさる


経済学部の浄土渉と申します。今年度、執筆者の一人として加わることになりました。どうぞよろしくお願いいたします。

トマ・ピケティの数式
 早速ですが、フランスの経済学者トマ・ピケティが著書『21世紀の資本』で示した次の数式を見たことがあるでしょうか。


r > g
(資本収益率 世界産出の成長率)


ピケティは自らの研究で、古代から2千年にわたる上記の時系列データを発掘し、r > gという関係が、ほぼすべての時期において成立していることを明らかにしました。

そして彼は、上記の歴史的事実に基づき、資本を持たない者はいくら懸命に働いても、相続等によってすでに資本を持っている者に追いつくことはできないという資本主義社会の不都合な真実を世に訴えたのです。

この本が専門書であるにも関わらずベストセラーになったのは、当時から所得格差が問題視されていたこともありますが、r > gのように、わずか2文字で格差の発生メカニズムを示したこともその理由として大きかったと思います。 

・消費の習慣と目先の消費
 そこで今回は、簡単な数式から経済の本質を示した他の研究を紹介します。恐縮ですが、5年ほど前に私が発表したものです。 

その研究では、消費の習慣形成というモデルから、次の数式を提示しました。

η > δ
(控え目な消費の習慣 目先の消費)

 左辺の η(イータ)は、控え目な消費を習慣的に続けようとする性向の強さであり、右辺の δ(デルタ)は時間選好率と呼ばれ、目先の消費を求める性向の強さを表しています。

 したがって、上記の数式は、控え目な消費を習慣的に続けようとする性向の強さが、目先の消費を求める性向の強さよりも上回っていることを示しています。

ここで読者の皆さんは、「だから何なの?」と思われたかもしれませんが、この数式が成り立つと、ある重要なことが説明できるのです。

 ・景気回復の実感と η > δ 
 日本銀行による異次元の金融緩和は2013年4月に開始され、それにより日本の景気は持続的向上を実現しました(注1)。失業率は改善し、株価も上がり、消費も緩やかながら回復しました。そして何よりも、物価の下落と円高に歯止めがかかりました。

しかし不思議なことに、日本国内では依然として、景気回復の実感がわかないとする人が多いように見受けられます。

これはいったいどういうことでしょうか。

実は結論から言うと、このような景気と実感のギャップを説明できるのが、消費の習慣形成モデルから導かれた上記の数式(η > δなのです。

・消費の習慣形成モデル
 そもそも消費の習慣形成とは、端的に言えば「積極的な消費は将来の消費の満足度を下げてしまう」というものです。
 
 もう少し詳しく説明すると、今から積極的な消費に切り替えたとしても、初めのうちはそれにより豊かさを享受できるのですが、時間が経つにつれてそれに慣れてしまい、将来はもっと多くの消費をしないと当初と同じ満足感が得られなくなるということです。
 
 そして、人々はこのような異時点間の消費の影響を織り込んだ上で、生涯にわたる消費パターンを合理的に決定すると考えるのが、消費の習慣形成モデルといわれるものです。

・従来のマクロ経済モデル
 ところが、目先の消費を求める性向(=δ)だけを考慮した従来のマクロ経済モデルでは、現在の消費が将来の消費の満足度に影響するとは考えず、人々は将来の価格動向だけを見据えて、生涯の消費パターンを合理的に決定すると想定してきました。

このようなモデルでは、目先の消費を求める性向(=δが大きい場合、政府がより多くの消費を促すような金銭的動機付けを与えると、人々は喜んでその要請に応じることになります。

したがって、従来のマクロ経済モデルでは、お金を増やす金融政策は、生産と消費を増やし、人々の幸福感を向上させるという結果になるのです。

そのため、従来のマクロ経済モデルからは、消費や雇用が増えたにも関わらず景気回復の実感が乏しいという現象は、どうしても説明がつかないのです。

・消費の習慣形成と金融政策
 一方、消費の習慣形成モデルでは、先ほども説明したように、現在の消費行動は、消費の習慣形成を経由して、将来の消費の満足度に影響すると想定します。

この消費の習慣形成の考えを従来のマクロ経済モデルに導入すると、ぜいたくな消費は無意味となり、人々は控え目な消費習慣を志向するようになります(ぜいたくな消費は時間が経つと慣れてしまうので)。

また、このような消費の習慣形成を考慮したモデルでは、インフレが予想されたとしても、人々は素直にそれに応じて目先の消費を増やすとは限らなくなります。

そして、何より重要なことは、控え目な消費を習慣的に続けようとする性向の強さがどの程度以上であれば、目先の消費を増やすことに抵抗や不満を感じるかということであり、その基準を示したのが、η > δ という数式なのです。

この数式のメッセージは、控え目な消費を習慣的に続けようとする性向の強さ η が目先の消費を求める性向の強さ δ を上回ると、消費や雇用を増やすとしても、またインフレや円安をもたらすとしても、お金を増やす金融政策は人々の幸福感を逆に下げてしまうということです。

言い換えると、お金を増やす金融政策は、η > δ のもとでは、人々に無理強いして消費を増加させる手段に変わるということです(注2)

以上が、私が論文で示した η > δ の経済的意味です。

η > δ に関する実証研究
 それでは、 η > δ という数式は、実際のデータによって裏付けられているのでしょうか。

幸いなことに、 η δ 値を推定した研究はすでに存在しています。

海外のケースですが、消費の習慣形成の強さである η の推定値は0.80.9と出ており(Fuhrer (2000))、目先の消費性向の強さである δ の推定値は0.080.19となっています(Lawrance (1991), Samwick (1998), Trostel and Taylor (2001))。

η の推定値:0.80.9
  δ の推定値:0.080.19

これらの実証研究から分かることは、現実の世界においても、η の値は δ を常に上回っているということです。控え目に見積もっても、 η δ の4倍以上の大きさになっています。

したがって、お金を増やす金融政策が消費や雇用を増やすにも関わらず人々の幸福感を逆に下げてしまうという理論的帰結は、実証面からも妥当性をもつといえそうです。

・おわりに
 これまで日本では、失業率が歴史的低水準であるにもかかわらず景気回復の実感が乏しいといわれてきました。

その理由として、思うように伸びない賃金収入、非正規雇用の増加、地方経済の衰退、高齢化の進行とそれが引き起こす社会保障問題等が挙げられてきました。

しかし以上の研究結果から、もしかしたら大胆な金融緩和政策によって人々の控え目な消費習慣が乱されたことが、景気回復の実感のなさを説明する本質的要因であったのかもしれません。

言い換えれば、日本人はもともと控え目で質素な生活を好み、これからもそういう生活を望んでいたところに、突如としてインフレをもたらす金融政策によって目先の消費を増やすことを余儀なくされたことが、日本で景気回復の実感が生まれない本質的理由であったのかもしれません。

注1)「異次元緩和 黒田総裁主導で13年4月開始(きょうのことば)」日本経済新聞2016130日朝刊p.3
注2)ここでの「無理強いして」とは、例えば、これまで1日1袋のポテトチップスで日々満足し、これからも1日1袋を食べていこうとしている人々に、1日2袋のポテトチップスを食べることを強いることと言い換えることができます。もちろん、消費の習慣形成の存在を否定するならば、1日1袋より1日2袋を消費できる方が、食べる側の幸福感は即座に高まります。消費の習慣形成のない世界でも、消費のせっかち度を表す時間選好率 δ は存在しているので、食べる量が急に増えるほど幸福感が高まるからです。

 参考文献
  • トマ・ピケティ(山形浩夫ほか訳)(2014)『21世紀の資本』みすず書房
  • 日本経済新聞2016130日朝刊3ページ
  • Fuhrer, J.C. (2000) “Habit formation in consumption and its implications for monetary-policy models”, American Economic Review, Vol. 90, pp. 367-390.
  • Johdo, W. (2013) “Does monetary expansion improve welfare under habit formation?”, Economics Bulletin, Vol. 33, pp. 1959-1968.
  • Lawrance, E.C. (1991) “Poverty and the rate of time preference: evidence from panel data”, Journal of Political Economy, Vol. 99, pp. 54-77.
  • Samwick, A.A. (1998) “Discount rate heterogeneity and social security reform”, Journal of Development Economics, Vol. 57, pp. 117-146.
  • Trostel, P.A. and G.A. Taylor (2001) “A theory of time preference”, Economic Inquiry, Vol. 39, pp. 379-395.